物語は死ぬのか:『アラビアンナイト 三千年の願い』感想

タイトルにした通り、物語は死ぬのか?ということを軸に感想を書こうと思う。これはそういうことを問いかけ、監督なりのアンサーを示している映画だと感じたからだ。

 

アラビアンナイト 三千年の願い』のあらすじは以下(公式サイトより引用)

 

古今東西の物語や神話を研究するナラトロジー物語論の専門家アリシアは、 講演のためトルコのイスタンブールを訪れた。 バザールで美しいガラス瓶を買い、ホテルの部屋に戻ると、中から突然巨大な魔人〈ジン〉が現れた。 意外にも紳士的で女性との会話が大好きという魔人は、 瓶から出してくれたお礼に「3つの願い」を叶えようと申し出る。 そうすれば呪いが解けて自分も自由の身になれるのだ。 だが物語の専門家アリシアは、その誘いに疑念を抱く。 願い事の物語はどれも危険でハッピーエンドがないことを知っていたのだ。 魔人は彼女の考えを変えさせようと、 紀元前からの3000年に及ぶ自身の物語を語り始める。 そしてアリシアは、魔人も、さらに自らをも驚かせることになる、 ある願い事をするのだった……。

 

 

 物語が「死ぬかどうか」は一旦置いておいて、「死に行きはする」と思う。

 非常に残念なことだけど、大人になっていくたびに、空想や物語の世界と接している時間よりも、現実と接している時間のほうが長くなっていく。仕事・金勘定・生活・人間関係・家族……そういう現実が人生の中心を占めていく。

 そうした毎日の中で、私たちは本を読んだり、映画を見たり、漫画を読んだり、そういう物語を摂取していくことができなくなっていく。1日は24時間しかないのだから、生活リズムのあの円グラフの中から、「物語と接する時間」はいつのまにか弾き出される。

 個人のスケールで考えても、物語は私たちの人生との接触の時間を奪われ、死に行くのだ。誰も語ってくれない物語は生きられない。私たちの中にあった物語も、少しずつ影がうすくなっていく。それが大人になることなのかもしれないとも思う。

 

 作中では、主人公で物語研究をしている学者のアリシアが、物語は科学によって必要とされなくなっていくという文脈で、物語の在り方の変遷についての研究発表を行なっている。

 昔は季節が巡る理由、昼と夜がある理由、雷が落ちる理由、その全てに神々が関わっていて、そこには物語があった。神話は人々の生活に息づいていた。人々は、安心するため、敬うため、恐れるため、理解するために物語を必要としていたのだ。

 だが、今は、どうして季節が巡るのか、どうして昼と夜があるのか、全部教科書に絵図付きで載っている。科学で全てを説明できる。だからそこに物語はいらないのだ。そういう時代なのだ、ここは。

 

 この映画は、物語を必要としなくなった世界に対する「ふざけるな!」という気持ちと、まだまだ物語を必要としている私たちに対しての「忘れるな!」と気持ちが込められた映画なのだと思った。

 実際、上記の研究発表をしている時に、アリシアには古代の神の幻覚が見えてしまい、その幻覚は恐ろしい形相でアリシアに叫ぶのだ「ふざけるな!」と。

 

 アリシアがトルコの骨董屋で見つけた古びた瓶の中から現れた魔神(ジン)は、自分が自由になるためにアリシアに3つの願いをするよう伝える。だが、アリシアには願いがない。それに、願い事の物語のテーマの共通点は「教訓」。願い事をしてハッピーエンドを迎えるものはいないことをアリシアは知っているのである。

 そんなアリシアに、ジンは自分が辿ってきた三千年の人生の物語を聞かせる。映画の大部分は、このジンの人生の物語で構成されている。

 ジンの語る物語は、そのどれもがバッドエンドで、アリシアはますます願い事をする気が失せていく。でも、ジンが語る物語にはどれも愛が溢れていた。ジンがこれまで出会った者たちを深く愛していることが伝わる物語だった。

 物語に夢中になったアリシアは、自分でも信じられないという顔でジンに願い事を伝える。

「あなたがこれまで捧げてきた愛を、私も知りたい。そして、私もあなたを心から愛したい」

 

 私は、ジンとは、この映画における物語「そのもの」なのだと解釈した。アリシアが望んだことは、物語そのものを深く愛し、また、物語そのものに深く愛されることなのだ。アリシアが心から願う願い事は、それだった。

 

 アリシアは元々ロンドンに住んでいる。そのため、愛するジンを、出張先のトルコからロンドンに連れ帰らなければならない。

 ジンはこの世の全てを知ることができる。それゆえに、ロンドンは騒がしすぎる。人々のつぶやき、電波、ネットワーク、その全てがジンの負担となっていく。だが、ジンはアリシアと共にいることを望んだ。2人は楽しい日々をロンドンで過ごす。

 アリシアは十分に自立していて幸せだったが、同時に孤独だった。そんな彼女の目の前に現れた、同じように孤独なジン。2人は毎日を楽しく過ごす。アリシアは、孤独だからこそ出会えたのだとジンに言う。

 

 私は、孤独であることは惨めではないと心から信じている。孤独が惨めなのだとすれば、私たちは全員惨めだ。本質的に孤独でない人間なんて絶対にいない。だから、アリシアが十分に幸せだが、同時に孤独であるという描写にはかなり親近感を覚えた。

 アリシアは孤独だけれど、孤独だからこそ物語のことを愛せたのだとも思う。アリシアは惨めじゃない。アリシアが孤独と共に生きてきたから、アリシアはジンに出会えた。1人で見るレイトショーとか、閉館間際の図書館とか、そういうところで私たちはジンに出会うんだと思う。孤独に寄り添ってくれるのが物語なのだと思う。

 

 やはりロンドンの空気が合わなかったジンは、体がボロボロに崩れ、傷つき、消滅しそうになる。そんなジンを見て、アリシアは最後の願いごとを言う

「ここが肌に合わないのなら、貴方の世界に戻って」と。

 現実が押し寄せてくる世界では、物語は死に行く。例えたった1人、心から愛してくれる人がいても、世界の変化には抗えない。どこまでも現実が渦巻くロンドンは、ジン(物語)にとって根付けるような場所ではなかったのだろうと思う。

 

 物語のラスト、ジンが再びアリシアの目の前に現れる。そして、ジンは時たまアリシアの目の前に現れては、心配になる程「こちらの世界」にとどまり、そしてまたジンの世界に帰っていくことが示唆される。

 アリシアはモノローグで、「こうして、時々会えれば幸せなのだ」と語る。これは、私たちが生きる現実と、物語の関係性そのものなのではないのかと思った。

 私たちは、物語の中で生きることはできない。物語もまた、現実に成り変わることはできない。どんなに好きな小説や映画があっても、その中で生きることは不可能なのだ。私たちは、どんなに気に入らないことがあっても、どんなに辛くても、現実で生きてくしかない。

 でも、時たま、こうして物語が私たちに会いにきてくれるのだ。アリシアにとってのジンのように。あの日の絵本、夢中になって読んだ漫画、何度も見返した映画、お気に入りの小説。その全ての物語が私たちに時たま会いにきて、手を繋いで一緒に歩いてくれる。

 私たちがちゃんと物語を愛していれば、物語は私たちが生きている間に、何度も会いにきてくれるだろう。アリシアとジンが手を繋ぎ歩くラストを見てそう感じた。

 

 物語は死に行くが、死なない。例え科学がこの世の全てを解き明かしても、死ぬことはない。物語は私たちの生きる現実とは違う世界でそっと生き続け、時たま会いにきてくれる。私たちはそれを信じて、物語を愛し続ければ良いのだ。

 物語が与えてくれた愛を決して忘れずに。