気づき2025
最初、この記事のタイトルは「学び2025」としようとしていた。でも、書いていくうちに「学び」というより、「気づき」だなと感じて、「気づき2025」に変更した。
私は常々「人生とは気づきゲー」ということを言っているし、占い師に「あなたは気づきの人生を送る」とも言われた。気づきとは、学びよりも些細で、そして個人的である。だからこそ自分で拾い上げなくてはいけないのだ。
今年拾い上げた気づきを、大小様々書いていこう。
【気づき2025】
①日当たりのいい家に住んだほうがいい
早速、かなり個人的な話だ。
以前住んでいた家には、窓が1つしかなかった。しかも、ギリギリ身を乗り出せるかな?くらいの大きさの窓だ。窓の前には同じくらいの高さの建物が建っていた。1Kだったから、リビングとキッチンを仕切るドアを閉じると、窓のないキッチン側は昼でも真っ暗になる。
就職に伴い急ピッチで家の用意をしなくてはいけなかった。大学時代のアルバイトで貯めたなけなしの金では借りられる家は限られており、日当たりのことなど気にしている余裕はなかった。それに、住んでいるときには「日当たり悪いなー、引っ越したいなー」とも特に思わなかった。
現在の家にはなんと窓が4つある。一般的な収入帯で借りられる東京の一人暮らし用の物件で、これは稀なことだと思う。部屋探しサイトで見つけたときに「窓多すぎワロタ」と思って内見を申し込んだ。
住んでみて思うが、この家は暗い場所を探すのが難しいほどに隅々まで明るい。朝日は正しく窓から差し込み、こちらが抗いようもないほどに朝を定義づけてくる。以前の家では、朝でも電気をつけなければ薄暗さを感じていた。あの家では能動的に朝をやる必要があったんだなと、引っ越して気づいた。
この「能動的に朝をやる」というのが、精神的に追い込まれていたり、肉体的に疲れているとかなりきつい。そのうち朝でもカーテンを開けなくなり、部屋干しはそのままになり、寝るとき以外は電気をつけて生活するような状態になった。家事も掃除も何もかもが面倒になり、ギリ生活できるくらいのゴミ屋敷状態が続いていた。(余談だが、こんな状態だったため引っ越し作業は3日徹夜で行った)
今は能動的に朝をやる必要はない。正しい朝が強制的に始まるからだ。私は物事の最初の一歩を渋る傾向がある。掃除も始めてしまえばなんとかなるのに、その「始める」ことが一番きつい。日当たりの良い家が、一日の最初の一歩を肩代わりしてくれている。そのことに毎日救われている。
家具も以前の家からほとんど変わっていないはずなのに、家が明るいと、なんだか全てが素敵に見えてくる。明るいというのはそれだけで価値なのだと気づいた。
だから、できるなら、日当たりのいい家に住むべきだ。
②命はたったひとつということ
ちょうど1年前に、実家の猫が死んだ。20年生きた立派な猫だった。
近所にまるまると太った猫がいる。たまに外に出て通行人を眺めていて、機嫌が良ければ撫でさせてくれる。実家の猫が死んでから初めて撫でたのがこの猫だった。
このまるまると太った猫の頭を撫でたとき、20年慣れ親しんだ実家の猫との感触の違いにひどく動揺した。実家の猫は短毛と長毛の間のような毛をしていて、頭を撫でると手が少し沈む。だが近所の猫は短毛で、手のひらに柔らかく短い毛がふわふわと触れるだけだった。このとき、「あ、もう私の猫を撫でることはできないんだ」と急に実感して、歩きながら泣いた。
小さな頃から「命は誰しもひとつしか持っていない」ということを教えられる。道徳の時間を狙って居眠りをするような、斜に構えたガキだった私は「ふーん、で?」くらいに思っていた。
で?じゃないのだ。私が持つ命がひとつしかないということは、同時に、対峙する生き物が持つ命もひとつしかないということだ。私も、あなたも、犬も猫も、ここに書ききれない全ての生き物が、命をひとつしか持っていない。
私が対峙する生き物が、そのたったひとつの命を失うということは、私がもう二度とその命に触れられないということに等しいのだ。そのことに、愛猫の死で初めて気づいた。
あの日耳を滑っていった「命はたったひとつ」という言葉が、実感を伴って襲ってきた年だった。
③健康ってお得すぎ
今年初めて人間ドックを受診した。なんと、2DAYS開催のフルコースだ。会社の福利厚生を使って参加したが、他に参加していた人たちは見たところ40歳〜で、私は完全に浮いていた。人生初の胃カメラを体験して、「医療ってギリ許されてる拷問なんだ」と思ったりもした。
そしてなんと、膵臓の項目でE結果が出た。焦った。その項目+自分の数値で検索すると「膵臓がん」と出てくる。オワタと思った。思いながらも、精密検査を3ヶ月放置するのだから、人間の慣れは恐ろしい。一旦喉元をすぎると「膵臓E」の自分に慣れて、焦りを感じなくなるのだ。
精密検査とは面倒臭いもので、電話で予約して、病院に行き、血液採取をして、その結果をさらに次週病院に取りに行くという行為が必要になる。家から少し離れた病院で検査をしたので、精密検査にも、その結果を取りにいくのにも、半休を使わなければいけなかった。ここで気づく。不健康って、だり〜……。
結果を取りに行くと、15分ほど待たされた末に一言「問題ないですね」と言われただけで帰された。この一言のために、380円取られた。この一言に、380円!!!380円?!?!
幸運なことに身体の強い私は、あまり病院に行ったことがない。だから、結果を聞くだけで金を取られることを知らなかった。医療が素晴らしい物だということはわかるし(さっき拷問だと言ったろ)、医者になるのはとても大変だと理解はしている。それでも、おじさんに一言言われるだけで380円はヤバいだろ。
好きで病気になる人はいない。全ての病気を意識や生活で防止することは不可能だ。でも、なるべく、なるべく健康でいられるよう努力しようと思った。
④深刻でなくてもいいと選択できる(または、過程について)
今年、約10年ぶりにジョジョ3部のアニメをしっかり通しで見直した。27歳になってから見る3部の承太郎は、記憶の中よりもずっとイキリの思春期ガキで笑顔になった。高校生って、ガキだ。
見直して思ったけれど、3部ってかなり明るい。続く、4部・5部・6部のことを思うと、よりそう感じる。
スターダストクルセイダースの目的は命の危機が迫るホリィさんの救済で、そのためには宿敵であるDIOを倒さなくてはいけない。旅の目的こそ重いが、その道中の明るさに驚く。3部のことを思う時、頭の中を占めるのは世界中の美しい景色や、道中に起きる笑えるトラブルや、案外ノリのいい承太郎のことや、最後空港で「楽しかった」と言って別れる3人のことだ。だから私は3部が好きなのだと思う。人の命がかかった重要な旅、そして最後には仲間の半数が死んでしまう旅。それでも、最後に残る言葉は「楽しかった」なのだ。大人になってみると、このすごさに気づく。
何か困難な目標に向かう時、人は深刻になってしまいがちだ。私もそうで、むしろ「深刻でいるべきだ」とすら思っていたところもある。でも別に、困難な目標の途中でも息抜きをしたっていいし、楽しい思い出を作ってもいい。それが長期的な道のりであるなら、むしろそうするべきなのだ。そして、もし結果が振るわなかったり、思うような結末を迎えなかった時でも、そこに至る道全てが無駄で悲しいことだったと決めつけなくてもいい。私たちは、自分が辿る道のりについて「深刻でいなくてもいい」という選択ができる。「真剣」と「深刻」を一緒くたにしてしまっていたかもな〜と、自分を振り返って思った。真剣であっても深刻でなくていいのだ。この2つは矛盾しないのだ。
今年各部を見直してみて、ジョジョとは、つくづく過程の話なんだなと思った。外野から見えるのは結果だけである。だけど、当事者はそこに至る過程を知っている。重要なのはそこだと思う。結果がどうであれ、そこに至る過程に自分が納得できればそれで良い。そのことに気づいたから、なんとなく楽になった年だった。
⑤人生は8番出口
これも今年ずっと言い続けた。こんなに言っているのに、実況動画の知識しかないのは失礼だなと思うので、折を見てプレイしたいと思っている。
8番出口のルールは簡単で「異変があったらすぐ引き返せ」のみだ。異変を見逃して先に進んでしまうと、スタートである0番出口に戻されてしまい、駅の中でのループが始まってしまう。
話は飛ぶが、今年で社会人5年目になった。5年目ともなると、仕事を進めていく中でふと「おや?」という「異変の種子」を感じることがある。この「おや?」を無視して進めていくと、大抵最後の最後にとんでもないことになったり、計画が崩壊したりする。
さらに話が飛ぶが、今年は本格的に編み物にはまった年でもあった。「10段目まで細編み50目」みたいな物を編んでいる時に、ふと「おや?」という「異変の種子」を感じることがある。「なんか、斜めじゃない?」とか、「幅違くない?」とか、そういう「おや?」だ。これを無視して編み進めると、完成間際に全てが間違っていたことが判明し、3時間分の成果を泣く泣く解くという事態が起きたりする。
上記のことからも分かるように、「おや?」という「異変の種子」を感じたら、すぐ引き返すべきなのだ。それが後々の自分を救うことになる。仕事であれば「あの〜……ふと不安になったのですが、これってどうなってますかね?」と言ってみるべきだし、編み物なら「一旦、この段解くか……」と傷が浅いうちに対応すべきである。人生って、全部これじゃないか?
令和の世には「苦しかったら逃げるべきだ」とか、「嫌だと思ったらやめよう」みたいな言葉が蔓延っている。「石の上にも三年」のような、所謂昭和的な価値観へのカウンターパンチだろう。これらの言葉は本質を捉えておらず、美しくないなと思う。
それに比べて「異変を感じたら引き返せ」という言葉の美しさよ。なんてシンプルで、なんて本質的で、そして自我に満ちた言葉だろうか。「これは異変だ」と思ったら、私たちは逃げるでもなく、やめるでもなく、ただ引き返せばいいのだ。そのことに後ろめたさや罪悪感を感じる必要はない。だって、引き返すことが、長く続くループを抜け出す唯一の方法なのだから。引き返すという行為自体は後退を示すが、実のところ、その言葉の本質は前進なのではないかと思う。引き返すことで、私たちは前進している。もしくは、後々本当に前進することになる未来の自分を救っている。私はそう思う。
ちなみに8番出口は、異変ではないことを異変だと思って引き返してしまっても、0番出口に戻ってしまう。異変を感じたら引き返すということは、異変がない時はただひたすらに進め!ということでもあるのだと思う。この進む/引き返すの判断(すなわち異変を見分ける判断)に磨きをかけていくことが、これからの目標だなと思っている。
余談:8番出口のRTA動画をぜひ見てほしい。脱出までがあまりにも早すぎておもしろいから。
⑥全然ブチギレていい
今年の漢字は?と聞かれたら『怒』と即答する。今年は365日中、340日くらいはブチギレながら暮らしていたからだ。
ブチギレた理由は様々だ。大きなことで言えば世界情勢、政治、税金。小さいことで言えば、職場のあれこれ、職場のあれこれ、職場のあれこれ。昨年までの自分が見たら「お前大丈夫か?」と心配されるであろうペースでキレ続けた一年だった。(去年も突発的にキレて徹夜したりしているのだが、それはまた別の話だ)
思春期の時は、感情のベクトルが自分に向いている感じが強かった。だからこそ、「【私が】ムカついた」という理由で相手の立場を考えずにブチギレられていた。大人になるとそれが難しくなる。どうしても相手の事情とか、環境とか、そういう自分以外の部分にベクトルが向くからだと思う。それが大人として成熟することだとも思う。
でもベクトルを外に向けすぎてしまうと、自分が大切にしたいことや許せないことが曖昧になっていって、結果的に自分の輪郭がぼやけるなと今年気づいた。相手の事情はある、環境もある、でも、今ここで私の何かが踏み躙られていると感じたらブチギレるべきじゃないか?だっておかしいだろ、私だけが道を譲るのは。細い道でぶつからないように身を捩る努力もしない奴には、ブチギレていいだろ。
大人というのは怒らないことだと思っていた。何をされても余裕で、優しく、笑顔で、感情に波を立てないのが大人だと思っていた。でも今はそうは思わない。大人というのは、ブチギレるべき時にちゃんとブチギレられる人のことだ。おかしいと思ったら、おかしい!と言うべきなのだ。それを言ってからだって話し合いはできるし、互いに問題解決のために進むことだってできるはずだ。それができないのであれば、もう一度ブチギレよう。
今年は本当に「テメェ、まずはマイクを握れよ」とブチギレ続けた一年だった。正直、問題が全て解決したかと言われると、うーん……だ。でもブチギレ続けてよかったと思う。問題は解決しなかったが、踏み躙られ続けるような一年にはならずに済んだからだ。
みんな、思った5倍はブチギレていい。6秒間、相手になんとぶちかましてやるかしっかり考えて、デカい声でブチギレよう。これが本当のアンガーマネジメントだ‼️
⑦別に全部言わなくてもいい
Twitterをやっていた時、他のオタクのツイートが目に入ると無性にイライラして、片っ端からブロックしていた。真面目にこのイライラを分解していくと、「それ私も思ってたし」にたどり着く気がした。自分も思っていたのに、先にそれを文章にされることに腹が立つ。更に言えば「思っていたのに私はツイートしていないから、思ってなかったことにされてる気がする」とイラついていた。かなり毒されていたなと、今ならわかる。
今はSNSでいくらでも意見が表明できる時代だ。人類総発信者的な。だからこそ、「発信していない=そこまで思ってない/考えてない」のような等式が自分の中にできてしまって、「全部言わなきゃ!!」になってしまっていた気がする。
SNS隠居してから思うが、別に全部言わなくてもいい。なんか、こんな当たり前のことを忘れていたなと思った。2025年は「絶対に誰にも見せない日記」を始めてみたのだが、これがかなりよかった。本気の本音ってこういうことか〜と思った。誰にも言わないけど考えていることを自分の中で整理するのってかなりメンタルに良い。
⑥には「ブチギレろ!意見を言え!」と書いたので若干矛盾してしまうが、別に全部言わなくても大丈夫。言ってないから考えていなかったことにはならない。抽象的だが、これも大事な気づきだったと思う。
⑧ 永遠とは能動的
永遠という言葉が好きだ。楽しい時間も、好きな人たちも、ずっとずっと続けばいいなと本気で思っている。だが同時に、永遠などないことも知っている。2年前に嫌というほど思い知り、今でも頻繁に「永遠の存在しなさ」に打ちひしがれそうになる。
今年、ヒプノシスマイクの映画が公開された。今年はこの映画に通い、思いを馳せた1年だった。考えれば考えるほどヒプノシスマイクというコンテンツのことが本当に大好きだなと思った。そして、寂雷のこともますます大好きで、際限とかないんだな〜と改めて思った。
この、私の中に絶えず湧き出る「大好き」という気持ちに、とてつもない永遠を感じた。ヒプノシスマイクって終わるんじゃないの?という不安をもう1年以上抱えている。そうだ、コンテンツは永遠ではない。痛いほどわかっている。でも、今ここにある「大好き」という気持ちには永遠を感じる。永遠って自分の中にあるものなんだなと思った。こじつけのように聞こえてしまうかもしれないが、自分の中で永遠を感じたものは、つまりは永遠なのである。
もう一つ、永遠について考えたきっかけがある。DOMOTOのファンミーティングだ。KinKi Kidsは今年グループ名をDOMOTOに変えた。その改名後一発目のイベントが12月にあった。
イベントの最後に突然堂本剛から堂本光一宛の手紙が朗読され、その中で「2年前に2人きりで、お互いの気持ちについて話し合ったこと」「2人で同じ方向を向いて歩いていこうと決めたこと」「ルールの変更や困難に当たるたびに、何度も2人で話し合ったこと」「そしてたどり着いたのが改名であり、今であること」が触れられていた。
正直もう、内容全てに痺れてしまって詳しくは覚えていない。この手紙の朗読を聴いている時、私はずっと「この人たちは本気で永遠をやろうとしている」と、2人の気迫に圧倒されてしまっていた。2人は永遠が欲しいと願っているわけでも、永遠はあると思っているわけでもなく(実際、MC中堂本剛の口から「永遠はない」という言葉も出た)、『永遠をやろうとしている』。
永遠とは受動的なものではなく、能動的なものなんだなと気づいた。永遠はないのだ、ないのだが、やろうとすることはできる。2人の間にある永遠の本質は何なのかを見極めて、信じて、話し合い、時には適切に変わっていく。これが永遠をやるということなんだと思った。
それをこちらに宣言するような「変わっていく僕らの愛は強く光り輝く。この冬も超えてもっと素敵になるから」という愛のかたまりの追加歌詞にも痺れる。もう、DOMOTOさんには痺れっぱなしである。2025年の暮れに、本当にいいものを見せてもらった。
永遠はない。どう足掻いてもない。始まったものは終わる、なんて悲しいことだろう。でも、自分の中の永遠を信じることや、永遠をやろうとすることはできる。そういうふうに生きていきたいと思った。できるかはまだわからない。
いかがだったでしょうか?(アフィリエイト?)2025年、なんだかちょっといい年だった気がする。いろんな場所に行って、いろんなことをやったからかもしれない。
もちろんうまくいかなかったこともたくさんある。その課題は2026年に持ち越して、きっとまた気づきを得てみせる。なぜなら人生は気づきゲーだから。
ではみなさん、良いお年を!
私たちは唯一で、けれども複雑で:『ミッキー17』感想
昔から、「本当の自分」というワードに対して違和感を持ってきた。「本当の自分を曝け出して」とか、「本当の自分じゃないのが苦しい」なんて文脈でよく使われるワードだ。私はこのワードがどうもしっくりこない。こういうときに言われる「本当」は、大抵1つの人格のことを指している。ひとつに絞れる本当なんて、誰も持っていないと思う。
他者Aと触れ合っている時、私は私Aになり、他者Bと向き合っているときは私Bになる。1人でいる時でさえ、私2の時もあれば、私’のときもある。要するに、「本当の自分」なんていないのだ。たったひとつ「本当」として定義付けられる「私」なんて存在していない。Aも、Bも、2も、’も、全てが「私」であり、全てが「本当」なのである。
思春期からこういう気持ちを持ち始め、アラサーとなった今でもこの考えを手放していない。それどころか、年をとるたびに強く確信めいた気持ちになっていく。私という魂は紛れもなく唯一であるが、私という人間は複雑だ。
こういう考えを持って生きているから、『ミッキー17』が深く刺さったのだと思う。この映画のことをどうしようもなく愛しいと思ったのはなぜか、それを書きたいと思った。ネタバレも含む!
まずはあらすじから。公式サイトよりもわかりやすかったので、映画.comから引用。
失敗だらけの人生を送ってきた男ミッキーは、何度でも生まれ変われる“夢の仕事”で一発逆転を狙おうと、契約書をよく読まずにサインしてしまう。しかしその内容は、身勝手な権力者たちの命令に従って危険な任務を遂行し、ひたすら死んでは生き返ることを繰り返す過酷なものだった。文字通りの使い捨てワーカーとして搾取され続ける日々を送るミッキーだったが、ある日手違いによりミッキーの前に彼自身のコピーが同時に現れたことから、彼は反撃に出る。
世間的にはこの映画の評判が悪いと知って驚いた。ただ、公式サイトに記されているあらすじ、ポスター、そして予告等を見ると、なんとなくその不評の原因もわかる気がする。この映画を「ぶっ飛びSFエンターテイメント」だと思って見にいくと、多分肩透かしを喰らう。ただ、公式サイトがそういうテンションになってしまっているので、このサイトや予告を見て映画に来た人は「なんか思ってたのと違うな」とガッカリしてしまう可能性は大いにあるなと思った。ただこの映画を本質そのまま宣伝するのはとても難しいとも思うので、このサイトが出来上がってしまうというのもわかる。
この映画はSFではあるが、ぶっ飛びエンターテイメントではない。SFの土壌を使って、自己への許しと、人間への愛しさ、そして社会への皮肉と批判を込めたヒューマンドラマ的作品だと思う。
この映画では、地球は環境汚染等で最悪の惑星となっており、そこをどう抜け出すのかが取り沙汰されている。そこで、選挙に2回落選したケネス・マーシャルは地球に見切りをつけ「ニフルヘイム植民団」という、他惑星開拓のための植民団を立ち上げるのだ。
このケネスがま〜〜〜〜胡散臭い。妻のイルファが所謂セレブ思想で、旦那を操る形で好き勝手やっている。船場吉兆の女将である。この植民団の中で一番きつい仕事、「エクスペンダブル(使い捨て人間)」に志願してしまったのが主人公のミッキーというわけだ。余談だが、契約書類はしっかり読もうとこの映画を見て改めて思った。
彼は、4年のニフルヘイムへの宇宙の旅の中で何度も何度も死ぬ。死ぬたびに、人間複製機によって新しいミッキーがプリントされるのだ。プリントされたミッキーは、記憶はミッキーオリジナルのものを引き継ぎつつも、人格は少しずつ違う。
ミッキーには、宇宙船にのってすぐ、船の中で出会ったナーシャというガールフレンドがいる。ガールフレンドといいつつも、ミッキーとナーシャはお互いを「ソウルメイト(セックスもする!)」だと思っているらしい。
彼女はエリートエージェントとしてこの船に乗っており、兵士・警官・消防士の役割を担っている。今回この映画で一番かっこよかったのは、このナーシャだ。最高の女性だと思った。
映画の冒頭から出てくるのはミッキー17。つまり17番目のミッキーだ。さっき書いたように、プリントされたミッキーはそれぞれ少しずつ人格が異なる。3は泣き虫、5は優柔不断で、8はウザくて頭は悪いが精神は正常だったらしい。
つまり、ナーシャはミッキーがどんなミッキーであろうと、ずっと一緒にソウルメイトそして側にいたのである。ミッキー3だろうと、5だろうと、8だろうと、17だろうと、18だろうと。彼女にとってはどんなミッキーもミッキーで、日々プリントされ、少しずつ違う「ミッキー」を愛し続けた。
ナーシャがミッキーに持つ愛は自分にとって都合のいいミッキーだけを愛するものではない。ミッキーとして生まれてくる、さまざまな要素をもったミッキーの全てを愛することが、ナーシャの愛なのだ。
誰もが「死んでもまた生まれてくるミッキー」を粗雑に扱う中で、ナーシャだけはどのミッキーのことも、たった1人として愛した。そのために、ミッキー17とミッキー18がダブって現れた時に、ウキウキで3Pしようとするヤバい面もあるのだが。それも含めてナーシャの魅力だと感じた。ミッキー18は攻撃的ですぐキレる人格なのだが、彼女はそのミッキーに「ハバネロミッキー」と名付ける。マイナスな部分にも愛称をつけられることって、愛でしかないだろと思った。ミッキーが18人いたら、彼女は18人全員を愛した。
人間はたった1人の中に、いくつも「私」を持っている。『ミッキー17』はそれをミッキー×18人とすることで視覚的にも物語的にもわかりやすくした映画だと思う。私たちは1度死んだら終わりだし、2人が同時に存在することもまずない。でも、日々ゆらめく思想や気持ちの中で生きている。対峙する人によって見せる面を変えながら、分裂するのではなく1人の人間として生きている。
ナーシャの存在が、私の思想とこの映画を結びつけている。誰か1人と関係を持つということは、その1人の中にある様々な「私」を見ることに等しい。ナーシャのミッキーへの愛が語ること、つまりこの映画が提示する愛は「根気強く、全ての『私』に向き合うこと」だ。この映画はそれを愛としている。
同時に、ミッキーからナーシャへの愛もある。それは、ミッキー18が言う「ナーシャは誰でも説得しちゃうんだ」というセリフに現れていると思った(セリフうろ覚えかも)。
ナーシャは頭が良く、口が達者だ。ミッキーはそれを知っている。18人目のミッキーも、ナーシャのそういう面を信じているのだ。「根気強く、全ての『私』に向き合うこと」をナーシャの愛だとするのなら、ミッキーの愛は「誰かのある一面を最後まで信じること」だ。ミッキーはナーシャが見せる、彼女の持つ能力や性格をずっと信じている。
ミッキーは元来お人好しで、自分を騙した親友のことさえも最後まで信じるようなやつなのだが、それもこの愛に当てはまるだろう。人間は複雑だ。1人の中に悪もあれば善もある。ナーシャの愛が、その善悪全てを愛することなのだとしたら、ミッキーの愛は、誰かの悪に晒されても、その人が自分に見せてくれた善の一面を最後まで信じることだ。
この映画はこのどちらも描く。世界や政治やいろんなことを皮肉った映画なのだが、その中にある愛の質感がひたむきでびっくりする。そういうちぐはぐさが美しい映画だなと思った。
ミッキー17と、ミッキー18の対話によってもたらされる「自己への許し」の描写もとても好きだ。ミッキー17は「マイルドミッキー」と呼ばれていて、とてもお人好しで自罰的なミッキーだ。オリジナルミッキーは幼少期、母親の運転する車に乗っている時に車の赤いボタンを押したことで事故が起き、母が事故死している。そのことを、ずっと自分のせいだと思い続けている。物語の終盤、もうどう転んでも死ぬだろみたいな状況に晒された時、ミッキー17がミッキー18に言うのだ「これは罰なんだ」と「これはあの日ボタンを押して、母親を殺した罰なんだ」と。それを聞いたミッキー18が言う。「前も言っただろ。あれはお前のせいじゃなくて、車会社の不備のせいだ」と。
ミッキー同士で行われるこの対話は、明確な自己への許しの場面だ。ミッキーはきっと、どこかで「事故が起きたのは車のせいだった」とわかっていたのだと思う。それに、生きていく中で他人にも「君のせいじゃない」と何度も言われているはずだ。でも、事故を引き起こすきっかけとなった自分のことがずっと許せずにいたのだろう。
結局、自分のことを許すことができなければ、一生救われないのだと思う。その許しを他者に委託することは不可能だ。ミッキー18がミッキー17に言ったように、私たちは私たち自身に「お前のせいじゃなかっただろ」と言わなくてはいけない。これを言えるのは自分自身だけだ。だから、自分自身と喧嘩をしている場合ではないのだ。
私は自己受容の物語が大好きだ。過去の自分や、未来の自分を、抱きしめてやりたいとすら思う。誰にもその役割を譲りたくない。私のために、私がやってやりたい1番のことだ。そう思っているから、ミッキーがミッキー自身に許しを与えるこのシーンのことが大好きだ。
ほかにも好きなシーンや、好きなキャラクターが出てくるのだが、どうしても散漫になるので、ここで終わりにする。ただ、この映画は上記のような「個人と個人」の話に収束していく小さな物語ではなく、もっと大きな物語に発展していく。それこそ、「個人と国」や、「先住者と侵略者」という単位になっていく物語だ。
この映画を「期待はずれのSF」として見るのは本当にもったいないと思う。私はこの映画から感じる「人間は唯一無二だが、とても複雑」ということへの、どうしようもない愛しさみたいなものが大好きだ。
あなたがくれたランプを灯して:劇団四季『ゴースト&レディ』感想
劇団四季の『ゴースト&レディ』を観劇してきた。母から「チケットが手に入ったから見に行かないか」誘われて、風の噂で「かなり良い」ということを聞いていたので、二つ返事でOKした。
結論、本当に良い舞台だった。役者の演技、歌、衣装、舞台演出、脚本、全て文句のつけどころがない、本当に素晴らしい舞台だった。調べたところ、あと3日ほどで千秋楽を迎えるらしい。見にきて本当に良かった。これを見られなかった人生を考えたくないなとすら思った。
3時間中3時間泣いていたと言っても大袈裟ではないくらい、ずっと泣いてしまった。忘れたくないので、感想を残そうと思う。
(これを読んだ人にも劇団四季『ゴースト&レディ』を見てほしいから、物語の結末は書かないでおく。配信があるようなので、気になった方はぜひ見てください。そして、あなたも「これを見なかった場合の人生」に思いを馳せ、震えてください。)
劇団四季ミュージカル『ゴースト&レディ』のあらすじは以下である(公式サイトから引用)
時は19世紀。舞台はイギリス。
ドルーリー・レーン劇場に現れたのは、有名なシアターゴースト グレイ。芝居をこよなく愛し、裏切りにあって命を落とした元決闘代理人。
そんなグレイのもとを一人の令嬢が訪ね、殺してほしいと懇願する。それは看護の道に強い使命感を抱くも、家族による職業への蔑みと反対にあって生きる意味を見失いかけていたフロー。最初は拒んだグレイだが、絶望の底まで落ちたら殺すという条件で彼女の願いを引き受ける。
死を覚悟したことでフローは信念をつらぬく決意をし、グレイとともにクリミアの野戦病院へ赴くことに。次第に絆を感じ始める2人だったが、そこで待っていたのは劣悪極まる環境と病院改革に奔走するフローを亡き者にしようと企む軍医の存在。さらにその傍らにはグレイと同じ、あるゴーストの姿が…。
主人公、フローの本名は「フローレンス・ナイチンゲール」。この物語は、知らぬ人はいないであろうナイチンゲールが主人公の物語である。
お金持ちの家の娘であるフローは看護の道を志し、クリミアの野戦病院で傷ついた兵士の看護をしたいと両親に申し出る。だが、その申し入れは当たり前に却下され、それより早く嫁に行けと、両親は彼女にアレックスという婚約者を用意する。フローはその状況に絶望し、グレイに殺してくれと懇願するのだ。
あらすじにある通り、両親の説得(という名の、グレイの力技)に成功し、アレックスからの求婚も断ったフローは、願い通りクリミアの野戦病院に向かう。フローは、劇場に住み着いていたグレイを「戦場ではいつ絶望するかわからない、その時あなたがいなきゃ私を殺せない。だからあなたも私と一緒に来るべきだ」と説得し、それに折れたグレイは彼女に同行することになる。
この展開を見た時「あぁ、フローを家の外に連れ出したのはグレイで、そしてグレイを劇場の外に連れ出したのはフローなのだ」と思った。彼女たちは、最初から手を取り合っていたのだと思う。踏み出すにはお互いが必要で、どちらが欠けてもダメだったのだ。それが劇中何度も繰り返される、「運命と奇跡」なのだなと思った。
何人もの女性が「私も傷ついた兵士を助けたい」とフローに続く。女性たちがフローを先頭に、長いドレスをたくしあげながら一歩一歩踏み出し「行こう、クリミアへ行こう」と力強い声で歌うところで、嗚咽するほど泣いてしまった。
これを書いていても涙が出てくる。たとえフィクションであっても、私達はああいうシーンを数多く見るべきだ。私達女が、女と一緒に、力強く歩けるところを見るべきだと思った。いつかそのシーンが私達を救う時が来るはずだ。そして、そういうシーンを数多く見た私達が、誰かを救う時がくるはずだ。そういうことを思わせてくれる本当に素晴らしいシーンだった。
彼女達がついた野戦病院は設備的にも衛生的にも最低で、怪我ではなく、病院の衛生環境が問題で兵士が死ぬような有様だった。その病院を、彼女達は不眠不休で掃除し、建て直した。そして、兵士たちに適切な看護を提供しようと奮闘した。その様子は記者によって本国にも伝えられ、フローは瞬く間に国の英雄となる。
病人の看護、病院の設営に加え、病院の更なる衛生環境改善のため、フローは夜な夜な本国の有権者に手紙を書いていた。暗く、静かな自室で。
そこに、グレイが倉庫から探してきたオイルランプを持ってくる。月明かりだけで手紙を書くフローを気遣ってのことだろう。そこに火を灯したフローは、グレイに「明るくなった、ありがとう」と伝えるのである。
このランプが持つ意味を、物語が終わるまでずっと考えていた。このランプは、ポスターにも描かれている。この物語の象徴であり、鍵であるはずだと思った。舞台を最後まで見て、私なりのランプの意味を見つけられた気がした。
フローは毎晩、このオイルランプを持って病室の見回りに行く。眠れぬ病人には声をかけ、死にゆく者の手を握って「あなたが眠るまでここにいる」と伝える。兵士たちは彼女を「ランプを持ったレディ」「愛の天使」と呼ぶのだ。
兵士たちにとって、ランプの灯り、そしてそれを持ったフローは、希望の光そのものだ。ランプに灯るのはただの炎ではなく、希望の炎なのである。では、その希望の炎を灯すランプを彼女に与えたのは誰か。それは紛れもない、グレイである。
ここで、彼女達が出会った「奇跡と運命」に思いを馳せてしまった。グレイが彼女を気遣い与えたランプが、そのまま、誰かの希望になっている。人々に希望をもたらす「ランプを持ったレディ」にランプを与えたのは、グレイなのである。誰かに寄り添い、孤独に使命を成し遂げようと奮闘するフローに寄り添ってくれたのは、グレイだった。
暗い部屋でフローがランプに火を灯した時、(フローは、今ランプに灯った炎なんだ)とも思った。フローは心の中に、赤々と燃える使命の炎をずっと持っていた。でも、その炎を発散する術と、場所を持っていなかった。両親に野戦病院で働くことを認めてもらえず、死さえ考えた彼女の炎を、希望に変える術をグレイが与えてくれたんだと思った。
炎はそのままでは持つ者自身を焼き尽くすが、ランプに灯せば、暗闇を照らす光になる。フローの熱く燃える決意を、使命感を、ランプの光にする道を、彼女とグレイは選んだんだと思った。
そしてまた、ランプはグレイなんだとも思った。グレイは生まれた時から身の回りの人に裏切られ続け、そして、裏切りが原因で死んでゴーストになった。彼は誰も信じることができないまま、何百年も孤独な劇場のゴーストでい続けた。彼は火の灯っていないランプだったのだ。誰かを信じ、愛することを忘れてしまった、火の灯らないランプ。そこに、フローが現れた。自分を裏切りそうもない、そして絶望もしそうにない女。彼女の存在は、グレイの心に明かりを灯しただろう。倉庫の隅に忘れられたランプに、光を灯したのは紛れもなくフローなのである。何十年、もしかしたら何百年ぶりかもしれない温かさに、ランプ自身がきっと心躍ったことだろう。
この物語におけるランプは、希望であり、そして希望が循環していくことを示していると解釈した。誰かがくれたランプに火を灯した時、そのランプを与えた人も、火を灯した人も、その光を見た人も、きっと希望を感じている。希望は誰かが一方的に与えるものではなく、巡るものなのだ。
私たちは誰かにランプをもらったら、火を灯さなければならない。フローがグレイに出会い、グレイがフローに出会ったことのように、それはきっと奇跡であり、運命であるはずなのだから。

観測地点はずっと先
友達が大学時代からの友達から「25歳で恋人もなく、結婚の予定もなく、惨めかも」というLINEを受け取ったらしい。
いつも会う友達とはこういう話をしないから忘れてたけど、25歳といえばそういう歳なのだなあとしみじみ思った。確かに職場の同期は結婚相手探しに奔走してマッチングアプリをしているし、地元の友人の結婚式に参加しまくっている。
同期たちを見て、地元に友達がいると、ご祝儀が必要になるんだな、と思った。私はマジで地元に友達がいないので、ご祝儀を払ったことがない。結婚式にも参加したことがない。私の連絡先を知っている者は地元に1人もいないので、地元から見ると私はかなり死んだ人に近い。
「惨め」って、誰から見て惨めなんだろうかと思った。他人から見て?それとも、25歳現在の自分から見て?誰からの目線でそう思うのかを、はっきりさせないといけないと思った。
他人から見て「惨め(だと思われているだろう)」なのであれば、もう一度自分と向き合って、自分について考えなければいけないと思う。自分は本当に惨めなのか、そう思わされているだけなのではないか?という問いを自分自身に投げかけるべきだ。私だったら多分そうする。
惨めだと思わせているのは他人からの目線かもしれないし、社会全体かもしれない。それをはっきりさせるべきだ。はっきりさせた後、泣くのか怒るのか、はたまた開き直るのか、決めた方がいい。わからないうちから「惨めだよ〜」って泣くのは無意味だと思う。エルヴィン・スミスも言っていた「君には何が見える?敵はなんだと思う?」と。
敵が分かれば「なーんだ、実際惨めじゃないじゃーん🎶」になるかもしれないし、わかってなお「いや、人から見て惨めだったらダメじゃん。辛いな」となるかもしれない。まずはそこに到達するべきではないかと思う。
無意味な苦しみからは抜けるべきだし、抜けられない苦しみなのだとすれば、苦しむための土壌を整える必要がある。
私自身ここ数年、悩みの土壌を整えることを意識している。何もわからない、暗闇のボコボコした地面で悩むのは辛いので、どこで・誰が・なんで・どうして?を明らかにして、比較的明るくて平らな地面で悩みたいと思っている。そのために時間を使おうとしている。友達と話していて、改めてこの気持ちを大切にしようと思った。
こんなことを言っているけれど、「25歳なのに……」という気持ちは痛いほどわかる。みんなが結婚していくと不安だし、私って何も進歩してないな〜と思うこともある。
深夜に突然不安になって、マッチングアプリに登録したこともある。でも、1日と経たずに退会した。メッセージが来るたびに「テメェ誰だよ」という気持ちになったからだ。そういうアプリなんだけど、マジで知らん人からメッセージが来ることに耐えられない。こんなのやってられるか❗️と思って、その後二度とアプリを入れていない。
私の不安なんて、マッチングアプリのメッセージに耐えられないくらいのもんなんだなーと思った。結局、不安だ不安だと言っていても、めんどくせーという気持ちのがでかいのだ。
深夜にマッチングアプリを入れたあの日の私は「周り(他人や社会)に不安に思わされていた」だけなのだと今ならわかる。自分が心から不安を感じて、それを解決したいなら、知らん奴からのメッセージにも返信するし、めちゃくちゃ角度を工夫した写真を登録するだろうし。
最近は「25歳なのに……」という漠然とした不安に襲われた時、25年後の自分に思いを馳せてみることにしている。50歳の私が25歳の私を思い返した時、多分「あの時婚活を頑張っていれば……」とは思わないと思うからだ。
50歳の私が25歳の自分を振り返ったら、きっと、ものすごく笑顔になってしまうと思う。だって好きなだけお金を使って、1人でどこまでも行けて、めちゃくちゃでテキトーで。そう思うと、「25歳なのに……」という不安がスッと消えていくのだ。
例えば50歳になった私が孤独なおばさんでも、「でも私って若い頃本当にめちゃくちゃで、最高だった」って思えるなら、人生って、それで良くない?と思う。
未来がわからないのは本当に不安だ。この先、最悪な人生を歩むかもしれないけど、その不安に飲み込まれて、今目の前に見える楽しさを手放すのは惜しいと思った。本当はあるはずの楽しさを全部無視して「惨めだ」と思うのは勿体無いと思った。不安は尽きないけれど、やっとこう思えるようになった。鬱屈とした中学時代の私に教えてあげたい。
「マジでなーんもわかんない。人生どうすんの笑」になる日もあるけれど、これに負けない自分でいたいな〜と思う。私のモットーは「めちゃくちゃになりたい時は、自分の責任でちゃんとめちゃくちゃになる」だ。今私はめちゃくちゃになりたい。お金も時間も好きなものに全部注ぎ込みたい。不安を全部無視して、踊り狂いたい。不安を減らすために保険をかけていく生活じゃなくて、不安を無視できるくらいのめちゃくちゃさで生きたいなあと思った。
未来がどうなるのかマジでわからないけど、25年後の自分メソッドは自分に向いてるなーと思う。ある意味これは、25年後の自分との信頼関係なのかもしれない。
星の光は、億光年をかけて地球に届く。人生のことを考える時、同時にこのことを思い出す。そんなふうに、「50の私、25の私の光を見てっか⁉️眩しいだろ‼️」という今を生きようと思う。
友達と話していた時はうまく言語化できなかったけど、やっと自分の中ではっきり文章にできそうだなと思ったから書いた。数年後にこれを見て、また自分について考えようと思う。
宴会は22時まで
春のことがとっても苦手〜〜!というかもう嫌いに近い。気温が上がってきて、日は長くなって、花は咲いて、虫や動物が目覚めだすけど、その全てをもってしても嫌いだ。
春の生ぬるい風を感じると、これまでの人生で起きた嫌な場面を思い出してしまう。友達が1人もいないクラスにぶち込まれたクラス替え、全然盛り上がらない新クラスでの懇親会、1年間必死に築き上げてきた関係性が残酷にもぶち壊されるあの感覚。とにかく春は嫌なことがよく起きる。あと普通に大学落ちた季節だし!!もう流石に引きずってないけど、落ちてからしばらくはめちゃくちゃ落ち込んでた。
春と学校嫌いの相性はすこぶる悪く、春といえば学校関連で嫌なことが起きる季節という刷り込みがされてしまった。春とはもう厄災である。
比較的自由を謳歌できるはずの大学生になってもそれは変わらず、春になるたびにウエーー!死ぬ!と思っていた。
大学時代金がなさすぎて、一駅分の電車賃さえ惜しく、バイト先まで30分くらい歩いて通っていた時があるのだが、春の良い天気の日にバイト先まで歩いていると(私って何してるんだろう)という気持ちになって涙が出てきた。
春になるとなぜか責められている気がする。別にそんな事実はどこにもないのに、なぜかここにいてはいけない気持ちになるのである。だから春のことが苦手だ。
今も、「春カスがよ〜〜」と思う気持ちは変わらないのだが、今日井の頭公園を散歩したらちょっとだけ春の好感度が上がったので、文章に残しておきたいと思った。
今日はとても暖かい日だった。半袖で歩いている人さえいて、春というよりも初夏に近かったかもしれない。吉祥寺駅周辺はごった返していて、井の頭公園への道ももちろん人でいっぱいだった。
みんな公園に向かっているし、行ってみるかという軽い気持ちで、私も人の流れに乗って歩いてみた。
井の頭公園には数回行ったことがあって、スワンボートに乗ったことがある。乗ってみると案外楽しいもので、友達と夢中でペダルを漕いだ。
公園の桜はほとんど散ってしまっていて、もうお花見の旬は終わったのかな〜などと思いながら半周歩く。
そんなことはなかった。宴会スペースには人、人、人‼️めちゃくちゃな量の人。ほとんど散った桜の木の下で、みんなが顔を真っ赤にして、でかい声で騒ぎながら各々楽しんでいる。風が吹くたびに桜の花びらが舞い落ちていた。
その様子を見た時、なんだか、笑ってしまった。みんなこんな花見好きなんだ‼️‼️と思って。私は花見をしたことがないし、正直あまりしたいとも思わない。外で飯食うの、ダルいし。片付けとかもめんどくさいし。そんな私とは正反対の人たちが各々宴会を開いていて、その様がなぜだかわからないがおもしろかった。
シートを広げて本格的に宴会をしている人たちもいれば、桜の下でただコンビニ弁当を食べている人もいる。なんか、健気すぎワロタと思ってしまった。あと、シートを広げて花見スタイルでマリカーの対戦してる人もいて、おまえら!家でもできること外でやるな!!!とマスクの下で爆笑してしまった。
なんかいいもの見たな〜と思った。私は春のこと好きじゃないし、みんなが春だ〜!という感じに盛り上がってるのをみるのもあんまり好きじゃないと思ってたけど、限界まで浮かれた人を見るってこんなにおもしろいんだなと思って、ちょっと春と、春に浮かれる人々のことが好きになった。
宴会スペースの至る所に「宴会は22時まで」という横断幕が吊り下げられている。これにもウケてしまった。やろうと思えば、ここで22時まで騒げるらしい。公園という、閉店とかそういう概念があまりない場所で「宴会は22時まで」という掟が掲げられているのっておもしろい。公園の神様が人間に「22時までならまあ、許容!」と言っているみたいで。
子供連れの人たちはおそらく夕方ごろには帰るんだろうが、大人だけのグループはきっと22時ギリギリまでお花見騒ぎを続けるんだろうな。ここにきた人たちは22時までのリミットを、精一杯楽しもうとしてる人たちなんだなあと思った。
お花見ができるのは、桜の花びらが残っているその瞬間まで。そして今日井の頭公園で騒げるのは22時まで。色々なリミットが重なって、今あの楽しそうな時間ができているのだなあと思うと、みんなもっと楽しみな‼️みたいな気持ちになった。私ってどの立場で世界を見てるんだ。
春の、リミット付きの楽しみを謳歌する人々を見たら、春ってまあそんなに……悪くないのかも……なあ……という気持ちになったという日記でした。

物語は死ぬのか:『アラビアンナイト 三千年の願い』感想
タイトルにした通り、物語は死ぬのか?ということを軸に感想を書こうと思う。これはそういうことを問いかけ、監督なりのアンサーを示している映画だと感じたからだ。
『アラビアンナイト 三千年の願い』のあらすじは以下(公式サイトより引用)
古今東西の物語や神話を研究するナラトロジー=物語論の専門家アリシアは、 講演のためトルコのイスタンブールを訪れた。 バザールで美しいガラス瓶を買い、ホテルの部屋に戻ると、中から突然巨大な魔人〈ジン〉が現れた。 意外にも紳士的で女性との会話が大好きという魔人は、 瓶から出してくれたお礼に「3つの願い」を叶えようと申し出る。 そうすれば呪いが解けて自分も自由の身になれるのだ。 だが物語の専門家アリシアは、その誘いに疑念を抱く。 願い事の物語はどれも危険でハッピーエンドがないことを知っていたのだ。 魔人は彼女の考えを変えさせようと、 紀元前からの3000年に及ぶ自身の物語を語り始める。 そしてアリシアは、魔人も、さらに自らをも驚かせることになる、 ある願い事をするのだった……。
物語が「死ぬかどうか」は一旦置いておいて、「死に行きはする」と思う。
非常に残念なことだけど、大人になっていくたびに、空想や物語の世界と接している時間よりも、現実と接している時間のほうが長くなっていく。仕事・金勘定・生活・人間関係・家族……そういう現実が人生の中心を占めていく。
そうした毎日の中で、私たちは本を読んだり、映画を見たり、漫画を読んだり、そういう物語を摂取していくことができなくなっていく。1日は24時間しかないのだから、生活リズムのあの円グラフの中から、「物語と接する時間」はいつのまにか弾き出される。
個人のスケールで考えても、物語は私たちの人生との接触の時間を奪われ、死に行くのだ。誰も語ってくれない物語は生きられない。私たちの中にあった物語も、少しずつ影がうすくなっていく。それが大人になることなのかもしれないとも思う。
作中では、主人公で物語研究をしている学者のアリシアが、物語は科学によって必要とされなくなっていくという文脈で、物語の在り方の変遷についての研究発表を行なっている。
昔は季節が巡る理由、昼と夜がある理由、雷が落ちる理由、その全てに神々が関わっていて、そこには物語があった。神話は人々の生活に息づいていた。人々は、安心するため、敬うため、恐れるため、理解するために物語を必要としていたのだ。
だが、今は、どうして季節が巡るのか、どうして昼と夜があるのか、全部教科書に絵図付きで載っている。科学で全てを説明できる。だからそこに物語はいらないのだ。そういう時代なのだ、ここは。
この映画は、物語を必要としなくなった世界に対する「ふざけるな!」という気持ちと、まだまだ物語を必要としている私たちに対しての「忘れるな!」と気持ちが込められた映画なのだと思った。
実際、上記の研究発表をしている時に、アリシアには古代の神の幻覚が見えてしまい、その幻覚は恐ろしい形相でアリシアに叫ぶのだ「ふざけるな!」と。
アリシアがトルコの骨董屋で見つけた古びた瓶の中から現れた魔神(ジン)は、自分が自由になるためにアリシアに3つの願いをするよう伝える。だが、アリシアには願いがない。それに、願い事の物語のテーマの共通点は「教訓」。願い事をしてハッピーエンドを迎えるものはいないことをアリシアは知っているのである。
そんなアリシアに、ジンは自分が辿ってきた三千年の人生の物語を聞かせる。映画の大部分は、このジンの人生の物語で構成されている。
ジンの語る物語は、そのどれもがバッドエンドで、アリシアはますます願い事をする気が失せていく。でも、ジンが語る物語にはどれも愛が溢れていた。ジンがこれまで出会った者たちを深く愛していることが伝わる物語だった。
物語に夢中になったアリシアは、自分でも信じられないという顔でジンに願い事を伝える。
「あなたがこれまで捧げてきた愛を、私も知りたい。そして、私もあなたを心から愛したい」
私は、ジンとは、この映画における物語「そのもの」なのだと解釈した。アリシアが望んだことは、物語そのものを深く愛し、また、物語そのものに深く愛されることなのだ。アリシアが心から願う願い事は、それだった。
アリシアは元々ロンドンに住んでいる。そのため、愛するジンを、出張先のトルコからロンドンに連れ帰らなければならない。
ジンはこの世の全てを知ることができる。それゆえに、ロンドンは騒がしすぎる。人々のつぶやき、電波、ネットワーク、その全てがジンの負担となっていく。だが、ジンはアリシアと共にいることを望んだ。2人は楽しい日々をロンドンで過ごす。
アリシアは十分に自立していて幸せだったが、同時に孤独だった。そんな彼女の目の前に現れた、同じように孤独なジン。2人は毎日を楽しく過ごす。アリシアは、孤独だからこそ出会えたのだとジンに言う。
私は、孤独であることは惨めではないと心から信じている。孤独が惨めなのだとすれば、私たちは全員惨めだ。本質的に孤独でない人間なんて絶対にいない。だから、アリシアが十分に幸せだが、同時に孤独であるという描写にはかなり親近感を覚えた。
アリシアは孤独だけれど、孤独だからこそ物語のことを愛せたのだとも思う。アリシアは惨めじゃない。アリシアが孤独と共に生きてきたから、アリシアはジンに出会えた。1人で見るレイトショーとか、閉館間際の図書館とか、そういうところで私たちはジンに出会うんだと思う。孤独に寄り添ってくれるのが物語なのだと思う。
やはりロンドンの空気が合わなかったジンは、体がボロボロに崩れ、傷つき、消滅しそうになる。そんなジンを見て、アリシアは最後の願いごとを言う
「ここが肌に合わないのなら、貴方の世界に戻って」と。
現実が押し寄せてくる世界では、物語は死に行く。例えたった1人、心から愛してくれる人がいても、世界の変化には抗えない。どこまでも現実が渦巻くロンドンは、ジン(物語)にとって根付けるような場所ではなかったのだろうと思う。
物語のラスト、ジンが再びアリシアの目の前に現れる。そして、ジンは時たまアリシアの目の前に現れては、心配になる程「こちらの世界」にとどまり、そしてまたジンの世界に帰っていくことが示唆される。
アリシアはモノローグで、「こうして、時々会えれば幸せなのだ」と語る。これは、私たちが生きる現実と、物語の関係性そのものなのではないのかと思った。
私たちは、物語の中で生きることはできない。物語もまた、現実に成り変わることはできない。どんなに好きな小説や映画があっても、その中で生きることは不可能なのだ。私たちは、どんなに気に入らないことがあっても、どんなに辛くても、現実で生きていくしかない。
でも、時たま、こうして物語が私たちに会いにきてくれるのだ。アリシアにとってのジンのように。あの日の絵本、夢中になって読んだ漫画、何度も見返した映画、お気に入りの小説。その全ての物語が私たちに時たま会いにきて、手を繋いで一緒に歩いてくれる。
私たちがちゃんと物語を愛していれば、物語は私たちが生きている間に、何度も会いにきてくれるだろう。アリシアとジンが手を繋ぎ歩くラストを見てそう感じた。
物語は死に行くが、死なない。例え科学がこの世の全てを解き明かしても、死ぬことはない。物語は私たちの生きる現実とは違う世界でそっと生き続け、時たま会いにきてくれる。私たちはそれを信じて、物語を愛し続ければ良いのだ。物語が私たちにくれた愛を、決して忘れずに。