観測地点はずっと先

 友達が大学時代からの友達から「25歳で恋人もなく、結婚の予定もなく、惨めかも」というLINEを受け取ったらしい。

 いつも会う友達とはこういう話をしないから忘れてたけど、25歳といえばそういう歳なのだなあとしみじみ思った。確かに職場の同期は結婚相手探しに奔走してマッチングアプリをしているし、地元の友人の結婚式に参加しまくっている。

 同期たちを見て、地元に友達がいると、ご祝儀が必要になるんだな、と思った。私はマジで地元に1人も友達がいないので、ご祝儀を払ったことがない。結婚式も行ったことない。私の連絡先を知っている者は地元に1人もいないので、地元から見ると私はかなり死んだ人に近い。

 

 「惨め」って、誰から見て惨めなんだろうかと思った。他人から見て?それとも、25歳現在の自分から見て?誰からの目線でそう思うのかを、はっきりさせないといけないと思った。

 他人から見て「惨め(だと思われているだろう)」なのであれば、もう一度自分と向き合って、自分について考えなければいけないと思う。自分は本当に惨めなのか、そう思わされているだけなのではないか?という問いを自分自身に投げかけるべきだ。私だったら多分そうする。

 惨めだと思わせているのは他人からの目線かもしれないし、社会全体かもしれない。それをはっきりさせるべきだ。はっきりさせた後、泣くのか怒るのか決めた方がいい。わからないうちから「惨めだよ〜」って泣くのは無意味だと思う。エルヴィン・スミスも言っていた「君には何が見える?敵はなんだと思う?」って(友達と、中学〜高校くらいで進撃の巨人に触れたかどうかで精神の方向性が変わるという話もした)。

 敵が分かれば「なーんだ、実際惨めじゃないじゃーん🎶」になるかもしれないし、わかってなお「いや、人から見て惨めだったらダメじゃん、辛い」となるかもしれない。まずはそこに到達するべきではないか?と思う。

 無意味な苦しみからは抜けるべきだし、抜けられない苦しみなのだとすれば、苦しむための土壌を整える必要がある。

 私自身ここ数年、悩みの土壌を整えることを意識している。何もわからない暗闇のボコボコした地面で悩むのは辛いので、どこで・誰が・なんで・どうして?を明らかにして、比較的明るくて平らな地面で悩みたい。そのために時間を使おう!と思っている。友達と話していて、改めてこの気持ちを大切にしようと思った。

 

 こんなことを言っているけど、「25歳なのに…」という気持ちは痛いほどわかる。みんな結婚していくと不安だし、私って何も進歩してないな〜と思うこともある。

 深夜に突然不安になってマッチングアプリに登録したこともある。でも、1日もたずに退会した。メッセージが来るたびに「テメェ誰だよ」という気持ちになったからだ。そういうアプリなんだけど、マジで知らん人からメッセージが来ることに耐えられない。こんなんやってられるか❗️と思って、その後2度とアプリを入れていない。

 私の不安なんて、マッチングアプリのメッセージに耐えられないくらいのもんなんだなーと思った。結局、不安だ不安だと言ってても、めんどくせーという気持ちのがでかいのだ。

 深夜にマッチングアプリを入れたあの日の私は「周り(他人や社会)に不安に思わされていた」だけなのだと今ならわかる。自分が心から不安を感じて、それを解決したいなら、知らん奴からのメッセージにも返信するし、めちゃくちゃ角度を工夫した写真を登録するだろうし。

 

 最近は「25歳なのに…」という漠然とした不安に襲われた時、25年後の自分に思いを馳せてみることにしている。50歳の私が25歳の私を思い返した時、多分「あの時婚活を頑張っていれば…」とは思わないと思うからだ。

 50歳の私が25歳の自分を振り返ったら、多分ものすごく笑顔になっちゃうと思う。だって好きなだけお金を使って、1人でどこまでも行けて、めちゃくちゃでテキトーで。そう思うと、「25歳なのに…」という不安がスッと消えていくのだ。

 例えば50歳になった私が孤独なおばさんでも、「でも私って若い頃本当にめちゃくちゃで最高だった」って思えるなら、人生それで良くない?って思う。

 未来がわからないのは本当に不安だ。この先、最悪な人生を歩むかもしれないけど、その不安に飲み込まれて、今目の前に見える楽しさを手放すのは惜しいと思った。本当はあるはずの楽しさを全部無視して「惨めだ」と思うのは勿体無いと思った。不安は尽きないけど、やっとこう思えるようになった。鬱屈とした中学時代の私に教えてあげたい。

 

 「マジでなーんもわかんない、人生どうすんの笑」になる日もあるけど、これに負けない自分でいたいな〜と思う。私のモットーは「めちゃくちゃになりたい時は、自分の責任でちゃんとめちゃくちゃになる」だ。今私はめちゃくちゃになりたい。お金も時間も好きなものに全部注ぎ込みたい。不安を全部無視して、踊り狂いたい。不安を減らすために保険をかけていく生活じゃなくて、不安を無視できるくらいのめちゃくちゃさで生きたいなあと思った。

 未来はどうなるのかマジでわかんないけど、25年後の自分メソッドは自分に向いてるなーと思う。ある意味これは、25年後の自分との信頼関係なのかもしれない。

 何億光年前の光が時間を超えて届く星みたいに、「おい❗️50の私、25の私の光を見てっか⁉️眩しいだろ❗️👍」という今を生きようと思う。

 友達と話していた時はうまく言語化できなかったけど、やっと自分の中ではっきり文章にできそうだなと思ったから書いた。数年後これ見て、また自分について考えようと思う。

 

  

ビチャツヤなやつがいる部屋

 最近、魚を飼い始めた。

 ベタという魚で、和名は闘魚。気性が荒く、2匹以上を同じ水槽に入れると、どちらかが死ぬまで争い続けるらしい。だから、ひとつの水槽につき1匹しか飼えない。

 その代わり、水の中の酸素が少なくなると自ら水面に口を出して空気を取り入れてくれるし、熱帯魚だけど冷たい水にもある程度耐えられる鈍感さを持っている。そのため、エアーポンプやフィルターなど、細々とした道具が必要なく、魚飼育初心者にふさわしい魚だという。

 昔からいつか魚を飼ってみたいという気持ちがあって、初めて飼うなら初心者にも優しいベタを飼おうと心に決めていた。先週の半ば、もう何もかも嫌になって、仕事帰りにペットショップの熱帯魚コーナーに寄って500円で買った真っ赤なベタ。大きく長いヒレを揺らしながら泳ぐ様子は、炎がチラチラと燃えるようで綺麗。水の中に炎があるようなアンバランスさがとても可愛いと思って、真っ赤なベタにした。

 2日くらいはヒーターなしで、自力で水の温度を調節していたのだけど、水温が下がるのってめちゃくちゃ早い。魚が寒い思いをするのがかわいそうで(名前がないのでさかなと呼んでいます)、結局Amazon prime便で魚用のヒーターを買った。私自身は電気代がもったいないから、エアコンをケチって着る毛布で耐えて震えながら部屋にいるのに、魚の水槽はいつも26度のぬくぬく快適水温に保たれている。そりゃスイスイ元気に泳ぎますわ。

 水が汚いのもかわいそうで、毎日スポイトを使って少しずつ水を変えている。しかも、温度が急に変わるとびっくりしちゃうかな?と思って、変える水も温めてから入れている。至れり尽くせりだよ。私自身の部屋は床がギリ見えるくらいの有様なのに。

 毎朝、化粧をしながら魚の餌を4〜5粒くらいあげる。水面にパラパラと餌の粒を落とすと、魚が「餌‼️」とでも言わんばかりに元気に水槽の上の方に上がってくる。

 近くで観察してみて初めて気づいたのだけど、魚って上を向いている時の目が本当に可愛い。明らかに「上を向いている!」という目をするのだ。マジで🙄←この顔。上を見てる時以外は正直どこを見ているのかよくわからないのに、上を見ている時だけ明らかに上を見ている。餌を見ている。それがめちゃくちゃ可愛くて、わかりやすすぎワロタ☺️と思いながら餌をあげている。

 魚を飼ってみて、自宅にアクアリウムを作る人の気持ちがよくわかると思った。魚そのものが可愛いのはもちろんのこと、そもそも家に水の塊(わたしは水槽を見ると、水の塊があるなと感じる)があることがとても愉快だ。しかもその水の塊の中に、自分とは全く違う生体の生き物がいる。愉快すぎる。

 実家にもう19年猫がいるが、猫は私たちと同じように陸で肺呼吸をして生きているし、毛があるし、反応がわかりやすいから、いつのまにか生活に溶け込んでいる。猫が家のその辺に寝てるのを見て、異質な生き物がいるな!とは思わなかった。

 でも魚には毎日思う。異質すぎるだろ、と。ビチャビチャでツヤツヤで、水の中でしか生きられない生き物がワンルームにいると、めちゃくちゃおもしろいのだ。異星人と暮らしているような感じさえする。部屋に突然現れた水の塊と、その中にいる自分と生き方が違いすぎる生物。魚を見ていると、今魚とわたしが同じ部屋にいることが不思議に思えてくる。あまりに現実味がない。

 小さい頃から水族館が好きだけど、水族館は、この不思議な感覚と、それを見ている自分という違和感を楽しめるから好きなのかもしれないと思った。その感覚を家で味わえるのが嬉しい。水槽をじっと見ている時、異世界をのぞいている気分になる。

 魚は撫でられないし、鳴かないし、喉も鳴らさないし、抱っこもできない。でもそこにいるだけで愉快で、可愛い。飼ってよかったなと思う。うちに来てくれてありがとね。生き方全然違うけど、それぞれ仲良くやっていこうね。

 

 

私が真剣(マジ)になったらこのお遊びやめられるのか?

 生きていくためのお金を稼がないといけないので、週5日働いています。この4月から社会人3年目になりました。

 

 私は好きなことでも仕事になると途端にだるくなるタイプなので、就活では「好きなことを仕事に」なんてことは一切考えませんでした。私の就活の軸は「なるべく安定、家賃補助、私がちょっとサボってもなんとかなるくらいのデカさの会社」この3つ。この軸を見つけるまでにいろいろな規模の会社を見に行きました。できて3年以内のベンチャー企業から、日本で知らずに生きることなんて無理な規模の会社まで。

 

 就活で気づいたことですが、小さい会社、それこそベンチャー企業に入ったら、私の売り上げで会社の先行きが決まってしまうような状況に置かれることになります。「そんなの耐えらんね〜〜!www」そう考えていた私は、個人の能力を数のマジックで均等にならしてくれるくらいの大きさの、そこそこ安定した、家賃補助がある会社に無事入社することができました。

 

 軸通りの会社に入社して、まる2年経った今、仕事の全てがお遊びにしか見えなくて、たまに耐えられなくなります。これは私が仕事に「真剣」(と書いてマジと読む)に向き合っていないからなのでしょうか。

 例えば、本社の偉い人が来て今年度の方針などを話していくデカい会議。マジで話していること全てがどうでもいい。真面目な顔で適度に頷きながら、ずっと椅子の裏側を撫でています。

 例えば、来社した偉い方々が帰る時のエレベーターで、閉まる寸前まで深く深くお辞儀をするアレ。マジで意味わかんねー。あれやる時(お、『アレ』がくるぞ!)と思って、お辞儀しながら笑いが止まりません。

 例えば、たいして「どうにかしたい」なんて思ってもいないのに、月次会議で「この課題をどうにかして克服して、店舗の売り上げを上げたいです!」なんていけしゃあしゃあと言っている時。マジで思ったことないです。でも言った方が喜ばれるから言っちゃうんですよね。

 もう全部お遊びとしか思えなくて、その癖でかい仕事をしっかりとこなしている同期を見て一丁前に焦ったりしています。ダサいですね〜〜本当に。

 

 頑張れないなら頑張れないなりの開き直りを、同期を見て焦るのならその分の頑張りを。そのどちらかに身を振れればもっと楽なんでしょうけど、どっちにもなれないんですよね。

 上記の「お遊び感覚」も、私が頑張れないからその理由づけとして無理やり達観したように自分に言い聞かせているだけなのでしょうか。

 私が仕事に「真剣(マジ)」になれたら、この感覚は無くなるのでしょうか。それとも真面目な顔した上司も取引先もみんなみんな、心のどこかでお遊びだと思っているのでしょうか。

 

 仕事に対して自分はどうしたいのか、そろそろ身の振り方を考えなきゃね〜と思いつつ、ずっと後回しにしています。

 いつか、同じ会社の人じゃなくて、違う会社の人たちの仕事に対するスタンスを真面目に聞いてみたいなと思っています。Twitterで募集してみようかな?

 

 

宴会は22時まで

 春のことがとっても苦手〜〜!というかもう嫌いに近い。気温が上がってきて、日は長くなって、花は咲いて、虫や動物が目覚めだすけど、その全てをもってしても嫌いだ。

 春の生ぬるい風を感じると、これまでの人生で起きた嫌な場面を思い出してしまう。友達が1人もいないクラスにぶち込まれたクラス替え、全然盛り上がらない新クラスでの懇親会、1年間必死に築き上げてきた関係性が残酷にもぶち壊されるあの感覚。とにかく春は嫌なことがよく起きる。あと普通に大学落ちた季節だし!!もう流石に引きずってないけど、落ちてからしばらくはめちゃくちゃ落ち込んでた。

  春と学校嫌いの相性はすこぶる悪く、春といえば学校関連で嫌なことが起きる季節という刷り込みがされてしまった。春とはもう厄災である。

 

 比較的自由を謳歌できるはずの大学生になってもそれは変わらず、春になるたびにウエーー!死ぬ!と思っていた。

 大学時代金がなさすぎて、一駅分の電車賃さえ惜しく、バイト先まで30分くらい歩いて通っていた時があるのだが、春の良い天気の日にバイト先まで歩いていると(私って何してるんだろう)という気持ちになって涙が出てきた。

 春になるとなぜか責められている気がする。別にそんな事実はどこにもないのに、なぜかここにいてはいけない気持ちになるのである。だから春のことが苦手だ。

 

 今も、「春カスがよ〜〜」と思う気持ちは変わらないのだが、今日井の頭公園を散歩したらちょっとだけ春の好感度が上がったので、文章に残しておきたいと思った。

 

 今日はとても暖かい日だった。半袖で歩いている人さえいて、春というよりも初夏に近かったかもしれない。吉祥寺駅周辺はごった返していて、井の頭公園への道ももちろん人でいっぱいだった。

 みんな公園に向かっているし、行ってみるかという軽い気持ちで、私も人の流れに乗って歩いてみた。

 井の頭公園には数回行ったことがあって、スワンボートに乗ったことがある。乗ってみると案外楽しいもので、友達と夢中でペダルを漕いだ。

 公園の桜はほとんど散ってしまっていて、もうお花見の旬は終わったのかな〜などと思いながら半周歩く。

 そんなことはなかった。宴会スペースには人、人、人‼️めちゃくちゃな量の人。ほとんど散った桜の木の下で、みんなが顔を真っ赤にして、でかい声で騒ぎながら各々楽しんでいる。風が吹くたびに桜の花びらが舞い落ちていた。

 その様子を見た時、なんだか、笑ってしまった。みんなこんな花見好きなんだ‼️‼️と思って。私は花見をしたことがないし、正直あまりしたいとも思わない。外で飯食うの、ダルいし。片付けとかもめんどくさいし。そんな私とは正反対の人たちが各々宴会を開いていて、その様がなぜだかわからないがおもしろかった。

 シートを広げて本格的に宴会をしている人たちもいれば、桜の下でただコンビニ弁当を食べている人もいる。なんか、健気すぎワロタと思ってしまった。あと、シートを広げて花見スタイルでマリカーの対戦してる人もいて、おまえら!家でもできること外でやるな!!!とマスクの下で爆笑してしまった。

 なんかいいもの見たな〜と思った。私は春のこと好きじゃないし、みんなが春だ〜!という感じに盛り上がってるのをみるのもあんまり好きじゃないと思ってたけど、限界まで浮かれた人を見るってこんなにおもしろいんだなと思って、ちょっと春と、春に浮かれる人々のことが好きになった。

 宴会スペースの至る所に「宴会は22時まで」という横断幕が吊り下げられている。これにもウケてしまった。やろうと思えば、ここで22時まで騒げるらしい。公園という、閉店とかそういう概念があまりない場所で「宴会は22時まで」という掟が掲げられているのっておもしろい。公園の神様が人間に「22時までならまあ、許容!」と言っているみたいで。

 子供連れの人たちはおそらく夕方ごろには帰るんだろうが、大人だけのグループはきっと22時ギリギリまでお花見騒ぎを続けるんだろうな。ここにきた人たちは22時までのリミットを、精一杯楽しもうとしてる人たちなんだなあと思った。

 

 お花見ができるのは、桜の花びらが残っているその瞬間まで。そして今日井の頭公園で騒げるのは22時まで。色々なリミットが重なって、今あの楽しそうな時間ができているのだなあと思うと、みんなもっと楽しみな‼️みたいな気持ちになった。私ってどの立場で世界を見てるんだ。

 

 春の、リミット付きの楽しみを謳歌する人々を見たら、春ってまあそんなに……悪くないのかも……なあ……という気持ちになったという日記でした。

 

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物語は死ぬのか:『アラビアンナイト 三千年の願い』感想

タイトルにした通り、物語は死ぬのか?ということを軸に感想を書こうと思う。これはそういうことを問いかけ、監督なりのアンサーを示している映画だと感じたからだ。

 

アラビアンナイト 三千年の願い』のあらすじは以下(公式サイトより引用)

 

古今東西の物語や神話を研究するナラトロジー物語論の専門家アリシアは、 講演のためトルコのイスタンブールを訪れた。 バザールで美しいガラス瓶を買い、ホテルの部屋に戻ると、中から突然巨大な魔人〈ジン〉が現れた。 意外にも紳士的で女性との会話が大好きという魔人は、 瓶から出してくれたお礼に「3つの願い」を叶えようと申し出る。 そうすれば呪いが解けて自分も自由の身になれるのだ。 だが物語の専門家アリシアは、その誘いに疑念を抱く。 願い事の物語はどれも危険でハッピーエンドがないことを知っていたのだ。 魔人は彼女の考えを変えさせようと、 紀元前からの3000年に及ぶ自身の物語を語り始める。 そしてアリシアは、魔人も、さらに自らをも驚かせることになる、 ある願い事をするのだった……。

 

 

 物語が「死ぬかどうか」は一旦置いておいて、「死に行きはする」と思う。

 非常に残念なことだけど、大人になっていくたびに、空想や物語の世界と接している時間よりも、現実と接している時間のほうが長くなっていく。仕事・金勘定・生活・人間関係・家族……そういう現実が人生の中心を占めていく。

 そうした毎日の中で、私たちは本を読んだり、映画を見たり、漫画を読んだり、そういう物語を摂取していくことができなくなっていく。1日は24時間しかないのだから、生活リズムのあの円グラフの中から、「物語と接する時間」はいつのまにか弾き出される。

 個人のスケールで考えても、物語は私たちの人生との接触の時間を奪われ、死に行くのだ。誰も語ってくれない物語は生きられない。私たちの中にあった物語も、少しずつ影がうすくなっていく。それが大人になることなのかもしれないとも思う。

 

 作中では、主人公で物語研究をしている学者のアリシアが、物語は科学によって必要とされなくなっていくという文脈で、物語の在り方の変遷についての研究発表を行なっている。

 昔は季節が巡る理由、昼と夜がある理由、雷が落ちる理由、その全てに神々が関わっていて、そこには物語があった。神話は人々の生活に息づいていた。人々は、安心するため、敬うため、恐れるため、理解するために物語を必要としていたのだ。

 だが、今は、どうして季節が巡るのか、どうして昼と夜があるのか、全部教科書に絵図付きで載っている。科学で全てを説明できる。だからそこに物語はいらないのだ。そういう時代なのだ、ここは。

 

 この映画は、物語を必要としなくなった世界に対する「ふざけるな!」という気持ちと、まだまだ物語を必要としている私たちに対しての「忘れるな!」と気持ちが込められた映画なのだと思った。

 実際、上記の研究発表をしている時に、アリシアには古代の神の幻覚が見えてしまい、その幻覚は恐ろしい形相でアリシアに叫ぶのだ「ふざけるな!」と。

 

 アリシアがトルコの骨董屋で見つけた古びた瓶の中から現れた魔神(ジン)は、自分が自由になるためにアリシアに3つの願いをするよう伝える。だが、アリシアには願いがない。それに、願い事の物語のテーマの共通点は「教訓」。願い事をしてハッピーエンドを迎えるものはいないことをアリシアは知っているのである。

 そんなアリシアに、ジンは自分が辿ってきた三千年の人生の物語を聞かせる。映画の大部分は、このジンの人生の物語で構成されている。

 ジンの語る物語は、そのどれもがバッドエンドで、アリシアはますます願い事をする気が失せていく。でも、ジンが語る物語にはどれも愛が溢れていた。ジンがこれまで出会った者たちを深く愛していることが伝わる物語だった。

 物語に夢中になったアリシアは、自分でも信じられないという顔でジンに願い事を伝える。

「あなたがこれまで捧げてきた愛を、私も知りたい。そして、私もあなたを心から愛したい」

 

 私は、ジンとは、この映画における物語「そのもの」なのだと解釈した。アリシアが望んだことは、物語そのものを深く愛し、また、物語そのものに深く愛されることなのだ。アリシアが心から願う願い事は、それだった。

 

 アリシアは元々ロンドンに住んでいる。そのため、愛するジンを、出張先のトルコからロンドンに連れ帰らなければならない。

 ジンはこの世の全てを知ることができる。それゆえに、ロンドンは騒がしすぎる。人々のつぶやき、電波、ネットワーク、その全てがジンの負担となっていく。だが、ジンはアリシアと共にいることを望んだ。2人は楽しい日々をロンドンで過ごす。

 アリシアは十分に自立していて幸せだったが、同時に孤独だった。そんな彼女の目の前に現れた、同じように孤独なジン。2人は毎日を楽しく過ごす。アリシアは、孤独だからこそ出会えたのだとジンに言う。

 

 私は、孤独であることは惨めではないと心から信じている。孤独が惨めなのだとすれば、私たちは全員惨めだ。本質的に孤独でない人間なんて絶対にいない。だから、アリシアが十分に幸せだが、同時に孤独であるという描写にはかなり親近感を覚えた。

 アリシアは孤独だけれど、孤独だからこそ物語のことを愛せたのだとも思う。アリシアは惨めじゃない。アリシアが孤独と共に生きてきたから、アリシアはジンに出会えた。1人で見るレイトショーとか、閉館間際の図書館とか、そういうところで私たちはジンに出会うんだと思う。孤独に寄り添ってくれるのが物語なのだと思う。

 

 やはりロンドンの空気が合わなかったジンは、体がボロボロに崩れ、傷つき、消滅しそうになる。そんなジンを見て、アリシアは最後の願いごとを言う

「ここが肌に合わないのなら、貴方の世界に戻って」と。

 現実が押し寄せてくる世界では、物語は死に行く。例えたった1人、心から愛してくれる人がいても、世界の変化には抗えない。どこまでも現実が渦巻くロンドンは、ジン(物語)にとって根付けるような場所ではなかったのだろうと思う。

 

 物語のラスト、ジンが再びアリシアの目の前に現れる。そして、ジンは時たまアリシアの目の前に現れては、心配になる程「こちらの世界」にとどまり、そしてまたジンの世界に帰っていくことが示唆される。

 アリシアはモノローグで、「こうして、時々会えれば幸せなのだ」と語る。これは、私たちが生きる現実と、物語の関係性そのものなのではないのかと思った。

 私たちは、物語の中で生きることはできない。物語もまた、現実に成り変わることはできない。どんなに好きな小説や映画があっても、その中で生きることは不可能なのだ。私たちは、どんなに気に入らないことがあっても、どんなに辛くても、現実で生きてくしかない。

 でも、時たま、こうして物語が私たちに会いにきてくれるのだ。アリシアにとってのジンのように。あの日の絵本、夢中になって読んだ漫画、何度も見返した映画、お気に入りの小説。その全ての物語が私たちに時たま会いにきて、手を繋いで一緒に歩いてくれる。

 私たちがちゃんと物語を愛していれば、物語は私たちが生きている間に、何度も会いにきてくれるだろう。アリシアとジンが手を繋ぎ歩くラストを見てそう感じた。

 

 物語は死に行くが、死なない。例え科学がこの世の全てを解き明かしても、死ぬことはない。物語は私たちの生きる現実とは違う世界でそっと生き続け、時たま会いにきてくれる。私たちはそれを信じて、物語を愛し続ければ良いのだ。

 物語が与えてくれた愛を決して忘れずに。

 

生活2

4月から住む街と働く場所が決まった。予想していた場所とは違くて、嬉しい誤算だった。私が1番自由を感じていた街の近くに住めるようになったから、通知を見たとき喜びと驚きで震えた。またあそこに住める。またあそこを歩ける。あそこに住んでいたとき私は1番自由だった。好きな時間に外を歩いて、好きな時間に眠って遊んで、一生このままがいいなあと何度も思った。

自由には孤独がつきものだと思っているけど、その孤独すら心地よかった。一人暮らしの1Rは狭くて、冬には凍えるほど寒くなる。夜には何の音もしなくなって、ひどく静かな空間に一人ぼっちなことが怖くなる。それでも、そこに自由はあった。わたしはここでたったひとり、生きていて良いのだと思うと心が軽かった。わたしの存在を、わたし自身が受け入れて愛していけるような気がした。誰に許されずともわたしはここにいる。その感覚が心地よくて、故郷に帰りたいと思ったことは一度だってなかった。

また、あの感覚を得られるのだろうか。嬉しい。今度は働きながらになって、以前とはまた生活が変わってくるだろうけど、きっと、また自由を感じて暮らすことができる。不安はあるけど、それよりももっと楽しみの方が多い。

答え合わせは最後に

最近、魔法使いの約束というソシャゲを始めた。そのゲームに出てくる魔法使いたちはとても長寿で、2000年も生きている設定の者もいる。

2000年……2000年生きるってどんな気持ちなんだろうと思った。彼らは長寿がゆえにお別れを繰り返していて、そのせいかみんなひどく孤独に見える。長寿がもたらすものの本質が孤独なのであれば、人間が少なくとも100歳前後で死ぬことは幸福なのではないかと思う。

私は中学の時、自分は成人する前に死ぬと思っていた。20歳の自分の姿があまりに想像できないから、こんなに想像できないのは、きっと死ぬからだと思っていた。でも、今私は成人して、今ここに生きている。ずっと不思議な感じがする。想像できなかった未来がいつの間にか今になっていて、今は「30歳の自分が想像できないから、死んでるのかも」なんて思っている。この繰り返しで老いていくのだろうか。

ゲームの話に戻るけれど、魔法使いたちは、孤独を抱えながらも長い長い人生の中でたくさんの大切な思い出を持っている。ストーリーを進めていくと、その思い出を大切な宝物を見せるようにポツポツと話してくれる。私はそれがとても嬉しくて、なんだか泣きそうになってしまう。何百年、何千年と生きている彼らの大切な思い出に触れられるのが嬉しいのだ。そして、そんなにも長く生きてきた彼らの中に、悲しい思い出だけでなく、誰かに話したくなるような楽しい思い出もあることが嬉しい。彼らの中に、そんな思い出がたったひとつでもあることが奇跡のようなことだと思うから。

そして、イベントストーリーなどで彼らが人間や他の魔法使いたちと交流し、楽しそうにしている姿を見るのも嬉しい。この瞬間を、彼らはいつか思い出してくれるだろうかと考える。彼らの気の遠くなるような人生の中に、ほんの少しでも光を灯せるような思い出になってほしいと願う。ゲームだからと切り捨てられないほどに、私は彼らの人生に魅せられているのだと思った。

私が死ぬまでに、誰かに話したくなるような思い出はいくつできるだろうか。そして、その思い出をいくつ覚えていられるのだろうか。思うように外出できず、やりたいことも手に付かないままぼーっと終わっていく毎日を振り返って思う。去年、パンデミックが世界中で起きて、今のような状態になって、「きっといつか終わるだろう」と楽観的に考えていたら、いつの間にか1年が終わっていた。怖かった。このままだと、今年も同じように終わってしまう気がする。私は2000年も生きられないから、1年1年が大切なはずなのに。

もっと、思ったことをきちんと言葉にして残しておきたい。もっと、毎日を噛み締めて生きてみたい。浮き沈みはあるだろうけど、その浮き沈みさえも、最後には愛したいなと思う。私が私の生活を愛せるのか、魔法使いたちのように、いつか誰かにこっそりと話したくなるような奇跡のような思い出を作れるかは今はまだわからない。答え合わせは最後だ。それまではただ、ひたすらに、生活を続けていくしかない。